2016年8月25日木曜日

分離11 水たまりの精霊

1969年6月28日にまた煙を吸います。
ドン・ファンの手助けで立たされますが、また自分の力で立てず、ドン・ファンに横にされ「転がされます」(分離194)(体術)
この転がす体術?については度々登場するので記載しておきます。

煙による内省の影響か、例の自分の息子への思いが語られます。

自分の生活の複雑さの原因が息子であることがわかっていた。父親でありたかった。
子供の(を自由に放っておかねば)ことを考えると泣き出してしまった。(分離196)

追記2017/5/17)カルロスの妻Margaret Castanedaは、1966年に息子のC.J. Castanedaを連れてカルロスの元を去ります。

その内、ドン・ファンの顔が「それ自身の輝きをもったまるい物体」に見えたとあります。

その感覚に夢中になってじっと見たのでしょう。
ドン・ファンは、
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「わしを見つめるんじゃない」
「見るな。ほかを見ろ」
「何にも焦点を合わせるな」
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といいます。このどこか一か所に集中せず、焦点を合わせずというのも頻繁に登場します。(体術)

焦点を合わせるなとかいっておいて、今度は、そのまま家の裏の灌漑用水路までいって水を見つめるように言われますが、集中できずうまくできません。・・・さっき集中するなって言ったのに

いつものように水に浸けられ横になり回復をはかります。

いつもの伝で翌日の1969年6月29日に昨日の反省会を行います。
カルロスは(ドン・ファンの顔が輝きをもったまるい物体に見えたので)”見た”のか?と尋ねましたが、煙は誰にだってそう見えるようにするものなのさ、といなされます。

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昨日お前は”見”やしなかった。だが、”見る”ことへの第一歩を踏み出したんだ。
本当に見ることができると見つめることがすべて無になるんだ!(分離200)
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要するに、煙の力を借りて「見る」のは補助輪で自転車に乗るようなものなのかと思います。すべてが「無」になるんだ、という背景は、「色即是空」関係かもしれません。シリーズ後半「空っぽ」という用語が登場しますので関係ありそうです。

それから丘のふもとの峡谷の入口へ歩いて1時間ほどの水たまり(water hole)と呼ばれてるが乾いている場所へ連れていかれて、その真ん中へ坐れと言われます。

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左足を尻の下にし、右足はひざを立てて坐れ。
右手は坐ったときのまま横にたらし、左手は胸を横切るように当てた。(体術)(分離201)
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瞑想用の体勢かな?

ドン・ファンはスピリットキャチャーと呼ばれるヒモを使って音を出して水の精霊を呼びます。

ひもを鳴らしているときに何かがやって来るように感じたら特別なことばをさけばなければならないと言われます。あいにく具体的な言葉の内容は秘密のようで書かれていません。

何かがひどく恐ろしげにやってきたら数年前教えてくれた戦闘姿勢(右腿を強くたたきながら左足のつま先で地面を打って踊る)をとるように言われます。(分離202)(体術)

Mukkuri.jpg
ムックリ
この「スピリットキャチャー」について検索してきましたが、かかってきませんでした。日本語で検索すると出てくるのですが英語(spirit catcher)ではミュージシャンや近代彫刻だけしかかかってきません。

勝手な印象ですが、アイヌの「ムックリ」のようなものではないでしょうか。(ドン・ファンが使うのはヒモだけですが)

昔、八重洲にある「アイヌ文化交流センター」でいただいたことがあります。うまくはじくとビヨ~~ンと気持いい音が口の中で反響します。

カルロスは、(自分の方角としていつものように)南東を向いて座っていると反響音が南東方向のある一点に集中するように思えてきます。

翌日(6月30日)、ドンファンは、昨日は水たまりの精霊に話しかけて眠りを覚まさせた、とカルロスに教えます。

その同じ日、カルロスはまた煙を吸います。(分離203)
今回は自分の意志で立つことができるようになり、前日失敗した灌漑用水路の水を見つめる「行」に再挑戦します。
しばらくすると緑色の霧が見えて輝いてきました。

事後、ドン・ファンは、その経験でカルロスがもう「見える」ようになっているようにほのめかします。(分離206)

再び二人は丘に向かい、スピリットキャッチャーを使って水たまりの精霊を呼ぶと、また南東からこだまが返ってきますが、カルロスは怖くなって危険を感じた時に叫ぶことばを叫びます。

その様子をみたドン・ファンは、十分にやったと言います。
ドン・ファンにしては珍しく優しいです。

その後、「見ること」に関する対話があるので記載しておきます。
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『見ること』が盟友と呪術の技術からは独立したプロセスだと言った。
呪術師は、盟友を支配してその力を扱えるが、見ることができるとは限らない。
以前、彼が盟友をもっていなかれば「見る」のは不可能だと言ったと言い返すと。
ドンファンは、「見る」ことはできて同時に盟友を支配することはできないことはありうると答えた。(分離209)
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見ることのできる奴はさまざまな盟友のあやつり方を学んで呪術師になれる。盟友を支配する技術を学んで呪術師になることもできるが、そういう奴は決して見ることは学ばんのだ。(分離209)
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それどころか見るってのは呪術の反対で、呪術なんぞちっとも大事じゃないってことを気づかせてくれるんだ
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上記の引用で、ドン・ファンがもはや(職業的な)呪術師ではないというわけがだいぶわかってきました。

この二度のセッションでカルロスは、水たまりの精に気に入られたそうです。(分離210)
しかも今日は、「見ること」に近かったと褒められます。
これまたドン・ファンにしては珍しいことです。

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