2016年10月27日木曜日

グロリア・ガーヴィンの話(2)『ドン・カルロスの教え』(13)

三冊の著書(『教え』、『分離』、『旅』)が出版された1973年頃には、カルロスはすっかり人々から崇拝の対象となっていた。

ドン・ファンの弟子になりたがるカウンターカルチャーファンの旅行者たちがメキシコの砂漠にドン・ファンとキノコを求めて殺到した。

『ドン・ファンの教え』は、週に16,000冊も売れた。『イクストランへの旅』は、ハードカバーでベストセラーになった。

ペーパーバックの売れ行きでカルロスは億万長者になった。古いワーゲンのバスを新車のアウディに変えた。ウェストウッド・ヴィレッジのパンドラ通りに邸宅を構えた。

「タイム誌」がインタビューを申し込んだ。

タイムに掲載された(ウソの)経歴を紹介しています。

カルロスはブラジルのサンパウロの著名な一家に1935年のクリスマスの日に生まれた。
父親は後に文学の教授になるがまだ17歳だった。母親は15歳。彼は養鶏農家をやっている母方の祖父母の家に6歳になるまで預けられた。6歳になると親元に引き取られた。

しかし幸せな時は短かった。母親が亡くなったのだ。医者の診断は肺炎だったが、カルロスがタイムに語ったところによると習い性になり麻痺した怠惰によるものだという。
「彼女は不機嫌で、美しく不満足だった。飾りのようなものだった」「僕は彼女に違う生き方をしてほしかった。でも彼女が僕のいうことを聞いてくれるわけない。まだ6歳だったんだ」
Oswaldo Aranha.jpg
 Oswaldo Aranha

(カルロスと架空の父との関係が記載されていますが、割愛します)

カルロスはブエノスアイレスのレベルの高い寄宿学校で教育を受け、そこでスペイン語を学んだのでドン・ファンとの対話で役に立った。

(イタリア語とポルトガル語はすでに堪能だった)15歳で手におえなくなったので一家の長である叔父―カルロスはその人物をOswaldo Aranha(オズワルド・アラーニャ)だと人には言っていた。

オズワルドは伝説のガウチョで革命家であり後のブラジル大統領だ。

ここで一言。

カルロスの苗字ですが、死亡証明書を参照しますとAranaが正解のようです。上記のOswaldo Aranhaとスペルが違います。
一方、Amy Wallaceの本では、カルロスはAranhaと書かれています。
こまかいことですが、一応人の名前ですので、あたしは役所の証明書をとってAranaを正とみます。

マーガレット・カスタネダの著書に名前の経緯が詳しく書いてありますので、別の機会にあらためて。

カルロスはその叔父にロサンジェルスの里親の元に預けられる。1951年のことだ。
彼は、ハリウッド高校に入学。二年後に卒業後、the Academy of Fine Arts in Milanで彫刻を学ぶためにイタリアに留学する。しかし「偉大な芸術家になるセンスに欠けていた」とわかった。
意気消沈してロスに戻りUCLAに入った。「人生をやりなおそうと思った」
そして文化人類学を学ぶことにしたとタイムに語った。

1959年に彼は苗字をカスタネダに変えた。

(つづいてタイム誌に掲載されたカスタネダの人物描写がありますが省略します)

カスタネダの人生の前半に関してタイム誌のインタビュー内容は後にカスタネダ研究者であるRichard DeMilleの調査と大分違うことがわかった。(デミルの出自を省略します)

このブログではこれまでもいろいろな部分でデミルの名前を使ってきました。
肝心のデミルの本の紹介がまだですが、あたしの「カスタネダの旅」の終わりの頃にやろうと思っています。

アメリカ移民局の記録によるとCarlos Cesar Salvador Arana Castanedaは、1951年に26歳でサンフランシスコに来た。そして1959年に米国に帰化した。ペルーの古代インカ帝国の町であるCajamarca(カハマルカ)で生まれた。

カハマルカの町は、魔女や民間療法師(curanderos)と縁が深い。
カルロスは、Cesar Arana Burungaryという時計と金細工職人の息子に生まれた。父親は、ダウンタウンで宝石店を経営していた。彼はイタリア移民の子供だった。

(カルロスの父親に関する描写も割愛します)

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