2016年8月12日金曜日

子の親 ドン・ファン (分離5 管理された愚かさ)

1968年10月3日、カルロスは、エリジオのイニシエイションのおさらいのため再びドン・ファンの家に向かいます。(分離100)

この3日、4日と二日に渡って、ドン・ファンが切り出した「管理された愚かさ」についての問答が書かれています。

この話に限らず、「第二の注意力」だとか、「忍びよる者」とかドン・ファンの用いる用語はむずかしいものが多くて、気の利いた解釈を加えることができません。

ま、あたしのブログ記事はドン・ファンの「教えの内容や実践」についてはあまり立ち入らず「登場人物の関係」、「時間の経緯」、「場所」、「小道具」などの整理を愉しむ感じで進めさせていただければと思います。

と言い訳を書いたところで、

ドン・ファンいわく私たちが普段見ている知覚の方法は彼から言わせれば眺めている状態で知覚を訓練することで事物の真の状態を見ることができるようになるそうです。

事物を”見る”ようになると「わかっちゃう」ので暮らしを営んでいく際に、普通の人と同じような感じで喜怒哀楽をとらえないようになる。
なのでそれらの感情を「演じる」ような感じでふるまうようにしていて、それが「管理された愚かさ」というものだ、と――こんな感じでしょうか?多分。

カルロスが、では呪術師たちの行動が「誠実なものでなく、役者の演技にすぎないことを意味しているのか?」(分離102)と問うと、「わしの行動に偽りはない。だがそれは役者の演技のようなものにすぎん」と答えます。

続けて「だがわしにはもはや大事なことなぞひとつもないんだ、わしの行動もわしの仲間の行動もな。それでもわしが生き続けるのは意志があるからだ」(分離104)
と言います。

ここでシリーズ後半に重要なキーワードである「意志」について言及があるのは重要かと思います。

人が一度”見る”ことを学んだら何もかも価値がなくなるのかい」
「価値がないとは言わなかったぞ、大事じゃないと言ったんだ。あらゆるものが平等だ
カルロスが、悲しみについて尋ねるとこう答えます。
悲しませるようなものに出会ったら眺めるんじゃなくて”見る”方へ眼を変えるんだ。だが愉快なことにぶつかったら眺めて笑うさ」(分離107)

スイッチを切り替えるように知覚をコントロールするのでしょうか?
次の引用は長いですが、非常に示唆に富むので掲載します。

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知者は心のある道を選び、それに従う。そうして彼は喜びを笑い、”見て”知るんだ。彼は自分の生涯がすぐに終わっちまうことを知ってるし、自分が他の誰とも同じようにどこへも行かんことを知ってる。彼は”見る”からこそ他のものより大事なことなどないのを知っとるんだ。言いかえればだな、知者には名誉も尊厳も家族も名前も故郷もありはせんのだ。あるのは生きるべき生活だけだ。こういう環境で彼をその同胞と結びつけている唯一の絆が管理された愚かさなのさ。(分離109)

他のことより重要なことなどありはせんのに、知者はまるでそれが自分にとって大事であるかのように行動することを選ぶんだ。
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これがまさに「管理された愚かさ」ということなのでしょう。

莫大な財をなしたカルロスの友人が政治に巻き込まれた果てに自分の人生を40年無駄にしたと嘆いた話を聞いたドン・ファンが言います。
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彼にとっちゃ努力が敗北に終わったからそれには価値がないだろうが、わしには成功も敗北も空虚さもない。すべてが充実しとるし平等なんだ、だからわしの努力には価値があると思っとる。
知者になるには誰だって戦士にならにゃならん、鼻たれ小僧じゃない。”見て”ただすべてがどうでもいいことだと悟るまであきらめず不平も言わず、たじろぎもせずに努力せにゃならんのだ(分離113)
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「管理された愚かさ」の「愚かさ」は原文では名詞のfollyです。
もちろん「愚かさ」も名詞ですが、なんだか微妙に扱いが異なって感じます。
上記の文脈からControlled Follyは、「コントロールされた世の営み」と意訳してもいいのではと思います。

ドン・ファンの人生は次第に明らかになっていきますが、メキシコに暮らしているインディアンたちの悲惨な過去を少しでも知ると、悲しみや苦しみ、怒りなどに対して感情を押し殺して暮らしを続ける虐げられた人々の到達したひとつの境地のように思えますし――色即是空空即是色の心のようにもとれます。

「空」のイメージとの共通点はシリーズ後半でも「空っぽ」という言葉でしばしば文中に現れます。

日をあらためて1968年10月4日、「管理された愚かさ」の考え方がまだ納得できないカルロスが尋ねます。(分離115)

自分の愛する人が死んだとき知者はその管理された愚かさをどうやって使うの?

カルロスは、仮にの話でもし孫のルシオに何かあったらといいますが、ドン・ファンをカルロスを制止し、息子のユラリオ(Eulalio)が高速道路工事中の事故で亡くなった話をします。

ドン・ファンは瀕死の息子を眺めずに”見た”といいます。
普通に悲しまないように愚かさを管理したといいますが、泣きたいときに泣けないなんて呪術師は因果な商売です。

ドン・ファンの息子は、後に『無限の本質』にカルロスがバス停で会っただけのドン・ファンと再開する手がかりを求めてメキシコを訪ね歩くエピソードに登場します。

仮に息子が、一人だけとすると、ユラリオは1960年には存命、68年までの間に事故にあって亡くなったことになります。

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